散る花を惜しむ心

晴天。朝。どうやら昨夜は雨が降っていたようで、街全体が濡れているのだけど、そのしっとりとした水分をこれから陽光が午前中いっぱいかけて水蒸気へと変えてゆく、そんな春の日。あと2時間もすると外に出る。陽炎が立っているかもしれぬ。水が風と光とに変換される春という時間の匂いに今日は出会いそうな予感。

彼の国では桜か、今。
此の国でも、桜である。桜は日本の専売特許というわけでもなくて、枝振りの非常に立派なのが公園なんかにフと花を踊らせているのに出会ったりもする。ただし花見という習慣は此の国にはないので、花の下で宴会をしている人は誰もいない。散歩の途中に「ワア」と声を上げるくらいのもので。ジョギングの途中にいつもより世界が桜色だなと思うだけで。いつもより世界が甘いと犬がはしゃぐだけで。花の下の、あのしっとりとした地球の表面に身を投げ出して花としばし戯れる「花見」などというものが彼の国にあることを、誰も想像もせずに、膨らみ、開き、散る花の横をただ通り過ぎてゆくだけだ。

そこでひとつ、文化実験「花見」を挙行して、この街の老若男女を一枚の筵に誘引してみたいと夢想したのだが、此の国では公共の場、屋外での飲酒してはいかんというんだよな。酒場でも、グラスを持って一歩でも店の外に出ようものなら、規則としてはお縄である。従って、自分の家の庭に桜の木がある、などという例外を除いては、花の下で盃を傾けるなどという風流はお縄の対象になってしまう。なんという無風流。花には盃、でしょ。しかしそもそも風流などという概念のないところで花に盃をやっちゃうと、単なる酔っぱらいの集まりになってしまい、収拾がつかなくなるんだろう。え? 本家本元の日本でも花見は単なる酔っぱらいの吹きだまりに成り下がってますって? そりゃいかん。やはり風流を知る者のみが盃を傾け花を愛でる資格があるってもんだろう(じゃないと花がある意味ないもんね。単なる酒盛り)。でもまあ酔っぱらいも今や花見文化の一部なのかもしれず。実は古よりそうだったのかもしれず(平安貴族も泥酔)。ともあれ花・盃・風流の三点バランスに留意すると、ステキな花見ができそうだ(くれぐれも花と風流のベクトルを忘れずにね、お父さん!)。ちょっと待てよ、うぬ、ぐぐぐ、むむむ、風流って英語に訳せるんだろうか。えっとー、うーんと、ぐぐぐ、訳せなさそうだなこれは。パラパラパラ辞書によるとeleganceだそうです。エレガンス。そうかな、うーん、ちょっと違うな、このズレこのギャップ。やっぱりこれは翻訳不能用語の一つらしい。風〜流〜の字面から生まれる文字風景、風と流れの無限の平面に独りぴゅるる〜と立つ感じ、その肌感、高貴かつ寂びた叙情までも全て含み込む英単語はないと思われる。

此の国の自然と人の関係は、どうやら風流などというそこはかとない感覚ではなくて、むしろガップリ四つになっての相撲、レスリングの後の爽快な汗、その懐に抱かれる母の大きさのようなもの。ビルの隙間の一本の桜を山に見立て、遠くにあるはずの自然に思いを馳せるなどという回りくどいことをしなくとも、自然はものすごい勢いでこちらに迫って来るというような場所なのだからなあ。散る花を惜しむ心。あるのかな此の国にも。私には彼女の心の中にあるそれがまだよく見えないし、その心を言い表す英単語も見つかっていない。アザラシがその辺にキョロキョロと顔を出しても、別に誰も大騒ぎしないこの水辺では、花もまたセンチメンタルさとは、どうやら今のところ無関係であるらしい。