緩慢日常

緩慢な日常と言えば聞こえが悪い。スローライフと呼びましょう。
久々に東京に降り立った昨年某月。駅でサラリーマンが走ってるのが新鮮だった。背広にタイに革鞄ほど走るに相応しくない形なし。ジリリリリリ、ぴこぴこぴこ、てぃやらりろん、ぽろろ、てぃやらりおん、ぽろろ、るーるーるらーららーーー(鉄腕アトムのテーマ)、その喧しい音に乗って僕もあなたも、俺も課長も、走る、走る、走る。OLも走る。コツコツコツよくそのヒールで走れるねえ。その顔は毛が逆立ってるのもあれば、なんとなく笑ってるのもある。やっぱりキュッキュと磨き上げられた革靴革鞄で走るってのは照れ臭いもんなんだろうな。そうやって走って来てなんとか終電に乗り込んだサラリーマンからは、拭い取る汗や蒸気に混じって決まってある匂いが放出されている。おっさん臭? それともアルコール臭? いやそれがちょっと違うんだ。OLだっても、その匂いがするし。たぶんそれは、会社臭とでも言うような。森を散歩すると森の匂いが体に染み付くのと同じように、会社という生態系の一部で日を過ごすと、その特有の匂いが体に染み付くらということらしい。それはコピーマシンのトナーの匂いなのかもしれず、比較的新しい事務机の香りなのかもしれず、給湯室やコーヒーの自販機の置いてある喫茶コーナーの匂いなのかもしれず、机の上にずらりと並んだパソコンの群れの吐息、あるいは、ほかほかもしくは古びた書類の束、それともやはり、窓の外にときどきぼんやりと眼をやるがそこには向いにあるビルの窓窓窓、その無数の蜂の巣穴のような窓に焦点を合わせてじっと目をこらすと、向うから同じように窓の外の蜂の巣の一つを見つめている青い顔は紛れもなく自分であった、などというモダンホラーに日々直面する会社員男女の吐息そのものが一種のお香のようになって、焚き付けられ、また焚き付けられて染み込み、電車という別の生態系へ入り込んだ途端に、化学反応を起こして放出されるのかもしれぬ。当の本人達には分からないこの仄かな香り。これが東京の一つの香風景をなしている。なんて勝手に想像した。

ともあれ、エネルギッシュですね、走るんだもの。
ってのは、緩いんですよ、こちら。
道路歩いてても、ヒトッコヒトリいないなんてことよくあるし。
それで最初に出会うのが、人間じゃなくてぴょこぴょこリスさんなんてことよくあるし。
東京の雑踏の中で左右前後に身をこなし、目的地に到着するという技術、さらに階段を二段抜かし三段抜かしで昇り切りまた駆け降りて、締まり際のドア15センチくらいのところから壁抜けの術とばかり乗車するあの技術、忍者並みだよ、ホント。などと言うと、あんた日本のサラリーマンを馬鹿にしとんのかと叱られそうですが、私はそんなエナジー、活気、株価が上がったり下がったりしているメーターが街行く人たちの後ろにいつもなんとなく見えるような街に住んでいる人が時に羨ましくもあるのです。

バンクーバーで走ってるのは、公園の犬(犬を放して遊ばせるような公園多し。人口ならぬ犬口過密也)ジョギングする老若男女、ベビーカーを押してるお母さん(走るんだ、これが)、キラーバイカー(自転車乗ってる人が一番アグレですこちら。赤信号でも止まらないんだな)、そして車。その車も本日はまばらな、緩慢な、どこまでも緩慢な週末。

スローライフに憧れる人には、どうにも夢のような街じゃないか。
なんだけど、うっかりすると、早くも隠居、もしくは隠遁などというどちらかというと人生の終わりのあたりに来て欲しい段階が、三段抜かし、五段抜かしでこっちに向って襲いかかって来て、毎日の暮らしをじわじわと蝕み始めるのである。沈むのです。放っておくと。緩むのです、筋力。

などと未だ煩悩に突き動かされつつ、何の努力をせずとも、婦女子雑誌の特集を読まずとも否が応でもスローライフに呑み込まれちゃう恐怖に立ち向わんと、シャドーボクシングでむやみやたらと虚空を打ちまくり、世界の速度を少し上げてみようなどと、我が身に香辛料を掛けまくり、幻想夢想のみであれ高揚させむと気張る端からまた襲いかかるスローライフの吐息。その魔法の手に包まれて永遠の眠りにつきそうになる誘惑に、まだじたばたと寝返りを打っていたら「憧れのファスト・ライフ」などという特集記事を読むラクーンの群れの幻がちらりと見えて、ホームレスのおっさんと同じ顔をした雪男がネムッチャダメ、ネムッチャダメと繰り返した。ような気がした。いつもと大して変わらぬ週末。曇天。