V図書館読み切り計画:004『超老伝 - カポエラをする人』

バスを待っていたら、バス亭のすぐ横で、完全にできあがったホームレスのおっさんが3人、地面に座ると言うよりは寝っ転がって、何やら会話している。会話というよりは各々が勝手に叫んでいて、しかもどのおっさんもアル中なうえにドラッグでもやってるんだろうか、トム・ウェイツを20年くらい野晒しにして表面にも内側にもヤスリで適当に引っ掻き傷をつけまくったような、ドス黒くキメの荒い、声というよりは唸り。バスを待つ人たちはその罵声を背後に凍り付いていたのですが、で、おっちゃんたち何を言ってるんだろうと耳を傾けると、「ファックユー、ファックユー、ケツ蹴り上げてやるぜ! ファックユー、ケツ蹴り上げてやるっつーの、ファックユー」なんて反復してたと思うと、「列になってバス待ってるよぉ〜、みんなよぉ〜、オレの従姉妹や親戚だよぉ〜、こんちくしょォ〜」とか、更には「マイケルのよぉ〜ジャクソンの鼻はよぉ〜、もうボロボロだっつーの。っうっぷ。こんちくしょォ〜」なんて、10秒おきくらいに、何の脈略もなく話題が転換してる様子。繰り返しが非常に多いのも特徴。そのうちコロコロっとおっちゃんの飲み終わったビールの缶が私の足下に転がって来たのだが、なぜかその時だけは「あらよっ、ごめんなさいねェ〜」とかやたら丁寧な一言と共に、ビール缶を拾ってまた定位置に戻ってファックユーとかやっておる。それもそのはず、おっちゃんたちの収入源は空き缶空き瓶のリサイクル。スーパーのショッピングカートをガラガラと押して、街中のゴミ箱というゴミ箱を漁り、空き瓶空き缶を集めてリサイクル場に持って行って換金するのである。あんなにドロドロに酔っぱらってても、空き缶は$マークに見えるんだろうな、転がった空き缶を拾いに来る時の身のこなしだけが、やたら正確かつ機敏なのでした。

酩酊してる人の目から見た世界ってどんなんだろうな、などと丁度考えている時だったので、ますますこの泥酔ホームレス軍団を興味深く観察してしまったのだが、というのも、モノを書く時にしばしば酩酊状態であったという中島らものこの本を読んでる途中だったからだ。

超老伝―カポエラをする人

超老伝―カポエラをする人

(収蔵日:記載なし)

シュールな劇画を見ているような、超新作落語を聞いているような、バラバラになった世界の断片の、その重要でもなんでもない部分の集積を見ているような、そんな感覚に浸らせてくれる本。限りなく瑣末で、要するにどーでもいいようなことが時にねちねちと、時にザザザっとあの角度、この角度、あの拡大率、この拡大率で書き連ねてある。ストーリー? それはあって無きが如し。そういう視点からは全くのナンセンス、お遊びということになってしまうのだが、まさにその点がこの小説? の面白いところで、読んでいて非常にわけのわからない世界の隙間の中に私は "トリップ"させてもらったのであり、なんだこりゃというおちゃらけの中に、ふむふむふむへえーと目から鱗の瞬間が隠されていたりもする。小説そのものの解体作業のようでもある。本という、とっても真面目なメディアを、内側からスカスカにしてそれ自体をギャグにしてしまった物書きってのも、そんなに多くないんじゃないだろうか。「あ、らもさん。いいよ〜、らもさん」「中島らも、うふふ...」「らもさんついにラリって逝っちまったか〜」などと、うっとりピンク色&秘密倶楽部色の溜息と目線で語る友人が過去に何人かいたのだが、V図書館の書径で出会うまで、私は一度も「らも」を手にとったことがなかったのでした。V図書館に感謝。

ずっと、え、んー、はは、はぁっ、アホ、ハハハ、ぽかーん、ガクッ、などと読み進んでいたのだが、最後の辺りで「あれ?」と気になる内容が書かれていた。あんまり本筋とは関係ない部分で、世界のディテイルを「見る」という一種の病的な嗜好に取り憑かれて、家庭も仕事も失った男が登場する。この人、世界を遠景や中景として見ることができず、接写の距離からついつい「見て」しまう。スギゴケをじっと見ていると、それがだんだん森に見えてきて、大きさの感覚が完全に揺らぎ、その小さい世界の中に自分も入り込んでしまう。スギゴケという大木の一本一本を見て、そこに歩く巨大な虫を見て、スギゴケの木との対比で、そこに転がっているハエの死骸が恐竜の死骸のようにデカく見えてしまい身震いする。そして、そこから更に広がっている山脈をじっと「見て」いくと、それが自分が枕にしていた木の根っこの根塊だと気づくに至って、今度は宇宙の大きさがぐわんぐわんと迫って来る。

「『極小』は『極大』の尾っぽを噛んでいるのです。それは一匹の蛇なのです。極小をきわめていくと、無限に分割していった極小世界のその果ては、同時に極大世界でもある。世界とはそういう存在ではないのか、と私は思うのです」と、この話の中の「見る」男はいう。そして、この感覚を一度知ると、現実のリアリティがなくなる...、と中島らもは続けるのですが、この一連のくだり、白眉。世界の俯瞰図ではなくて、肌理が見える人だったのかな、らもさんも。酩酊もまた、そんな目を持たせてくれる拡大鏡なのかもしれぬ。瑣末な日常の、更に些末な小さなもの。どーでもいいこと。でもそれが、すべてでもあること。マイケルの鼻。宇宙は限りなく小さく、大きい。