V図書館読み切り計画:003『美人の日本語』

日本に帰って温泉に浸かりたい、という時折どうしようもなく沸き上がる欲望にとても似ているのに「日本語のシャワーを浴びたい...」というのがある。語学留学生やワーホリの日本人がわさわさ居るバンクーバーとはいえ、ここは異国の地。英語帝国のテリトリーである。英語が上手くなりたい人へのアドバイスによく「とにかく英語圏で生活してみましょう」とかってのがあるが、あれはやっぱりウソではない。目に入る看板やサイン。道行く人の会話。スポーツパブのテレビから漏れる音。喫茶店のメニュー。ホームレスのおじさんの物乞いの呟き。そして、WBC決勝の中継も、犬の鳴き声だってこっちじゃ英語なのだ。近所でたまに見かける柴犬だって、ワンワンなんて吠えない。その前にそいつは柴犬じゃなくて「shii-tssba-Iii-nuuu」。最初の2つのシラブルがシンコペーションに弾み、三つ目のシラブルが高らかに鳴り響き、最後のシラブルの滑らかな着地がとってもオリエンタルで神秘的な、特別な犬であることを決定づける。なんだ、タダのしばいぬじゃん、とか、しばわんこーとか、しばちゃ〜んとか、そういう日本語の柴犬に付随したイメージは伝わってないんだろうな。

ま、犬のことはどうでもいいんだけど、このように犬も英語で吠えるような環境にいると、英語がどんどん体の中に入って来るということが否が応でも起きてしまう。寝てても起きてても、どうやっても空気のように入り込んでくる。食べるものも、何を食べたところでビタミンA、B、E、鉄分タンパク質炭水化物なんていう栄養素に混じって英語A、B、C、Dなどというものが体内に自然と摂取されてしまうので、時にはレストランで「MSG(化学調味料)なしで!」と注文するのと同じように「おばちゃん、英語A、B、Cは入れないで作ってね!」と我が身の健康を守るための無理な注文をしたいくらいである。

毎日生きているだけでタダの英語教室に通っているようなものだから、駅前の英会話教室に大枚はたいて効果ナシという人には夢のような話だろうが、もともとそれ程の容量のないところに英語がそこまでアグレッシブに入って来るということは、前にそこにあったもの、つまり日本語がだんだん排出されちゃうという危機的状況もまた生まれるわけである。英語が日本語を押し出しちゃうというよりは、英語A、B、Cなどが体内に取り込まれたことによって起こる恐るべき変化により、システムの全体が再構築されちゃうようなイメージかもしれない。OSが変わっちゃう感じで、英語ABCの摂取前と後では、なんだか世界が違って見える。ような気がする。それだけでも不安なのだが、更に「あれ、こういうのって日本語で何て言ったんだっけ...」という具体的な症状が現われるに至って、私の中にいる日本人が、いやんいやんと悲鳴をあげながら、ハンバーガーやホットドッグの皿の上で狂気乱舞しはじめるのである。

世界は言葉でできている、という側面がある。言葉以前のものに惹かれるから視覚や音で何かを作ろうと思うのでもあるが、それでもやっぱり、世界の大きな部分は言葉でできている。自分の中にいる日本人の狂気を救うためには日本語サプリが必要だ、と感じ始めていたからだろうか、バンクーバー図書館の書径を散歩していたら、この本がパっと目に留まった。

美人の日本語

美人の日本語

(収蔵日:Mar 06 2006)

日本語を浴びたいならフツーに小説でも読めば? という声が聞こえて来そうだが、この本はオーガニック無添加自然派かわいい乙女心くすぐりつつこれ飲んだらキレイになれそう系ダメージケアサプリなのであり、その一つ一つ宝石箱から取り出したように透明な言葉をそっと口に入れて、美肌効果を夢見て眠るのも時には悪くない。一年の日付に一つずつ言葉が割り振ってあり、それに解説がついているだけのシンプルなもので、その解説も、心のサプリという側面を意識してか、日々のアファーメーションみたいなノリで書かれている。世界が言葉でできているとしたら、キレイな言葉を摂取することで自分の世界がキレイになるという考え方は意外と正しいのかもしれず、侮れない。

さて本日の美人の言葉:海千山千
蛇も海に千年、山に千年住むと竜になるという言い伝えからきた言葉で、いろんな経験を積んできた、したたかな人という意味です。こんなことしててなんなんだろうーと思ってるようなことが後になって大きな意味を持って来る事があり、何事も経験です、経験を積み重ねましょう。というようなことが書いてあった。

うっ。効く感じアリ。
結構自分の今の状況言い当ててるかも(占いでもおみくじでもありませんが)。
そうか。うみせんやませんか。
ABCなんてもういやいやと言っている今もいつかは経験となるのか...。

などという使い方もできそうだ。

読破というよりは、その辺に置いておいて時々開くのが楽しそうな本。透明なオツマミ。ちょっと男性には甘いかも。