小さいもの礼賛 II

小さいものに魅せられた人々とは古今東西老若男女を問わず、どうやらいつも社会に小さい%存在してるらしい。真鍮のトイソルジャーのミニチュアを集めて棚に飾り悦に入るおじいさん、絶対にその老眼では一文字も読めないだろうマメ本を蒐集するおばあさん、フィギュアを集めるオタク、鉄道模型ジオラマに犬小屋でぼんやり昼寝してる米粒くらいの犬まで配置してるマニア、お人形の家の鍋釜アイロンまで揃える女の子、米粒に経文を書く達人...。他の人の目からは、どれもゴミみたいなもんなのだが、それが小さいもの好きには、もうたまらないほどかわいらしく、いとおしく、大切な宝物なのだから不思議なもんだ。

ミニチュアは、まず何といっても場所を取らないから、集めやすく、コレクター心を刺激するブツなのだが、そのうえほとんど神の目になって、狭いアパートの本棚の3段目とか、引き出しの中とか、小箱の中だとか、そういう場所に自分だけの「完璧な小さな世界」創り出すことができるシロモノでもある。...この人間世界ってのも私たちの目には見えない巨大な存在のドールハウスにすぎないのかもなあーそんなことを考えながら、コントロールされる方ではなく、する方の感覚をちょっとだけ楽しんでみるんだな。人間の知性は、こういう俯瞰図的な視点を持てるというところにあるとすら言えるのだから、小さいものとの戯れは結構本源的な遊びなのかもしれない。

小さいもの好きな人たちは「もう、こんながらくた、捨てて頂戴!」とうんざりした妻に怒鳴られると、泣きながらミニチュアのゴミ袋にそれらを詰め、とても小さなゴミ捨て場に捨てに行くだろう。それをミニチュアのゴミトラックが回収し、ミニチュアのゴミ処理工場に運ばれ、ミニチュアの機械がミニチュアな騒音を上げる中、それは粉々に砕かれてミニチュアの塵になり、ミニチュアの空に舞い上がる。そのミニチュアの吸い込まれるような青さとミニチュアの雲。ああ、どうしてこのいとおしいミニチュアをそんな風にして捨てられようか。かと言って、このミクロコスモスの住人達が、普通の大きさのゴミ袋に入れられて、巨大野菜屑や巨大トイレットペーパーの芯や、巨大文字が印刷されたピザ屋の広告なんかに押しつぶされながら巨大ゴミ処理工場で、巨大音を上げる巨大機械にプレスされる必要すらなく、普通の塵となって、普通の空の下の普通の地面にポイと捨てられるなんて、考えただけでもぞっとするではないか。もしそんな非情なことをせねばならぬのなら、ただ一つ、犬を連れた一人の少年がある日その普通のハラッパを通りすがり、地面に半分隠れるようにして落ちている犬を連れたミニチュアの少年を見つけ、ダイヤモンドを見つけたような輝く目をして、家に連れて帰ることを祈るだけだ。それにしても、ミニチュアの人物たちにとっては、彼らが入れるくらいのミニチュアのゴミ袋というのは、巨大なゴミ袋なのであって、彼らにとってのちょうどいいゴミ袋には彼らは入り込めない。入れ籠状に、世界は巨大特大大中小ミニマイクロナノなんたらと、限りなくいろんな大きさを持っているのだから。

...なんてことを一緒に考えてくれそうなアーティストがイギリスに生息しているの発見。

http://www.slinkachu.com/

この人は、街中にミニチュアのインスタレーションを設置して、それを写真撮影することを活動としているんだけど、実際のポストの真下に、ものすごく小さいポストに手紙を投函している人のフィギュアを設置したり、教会の入口の壁にもう一つのものすごく小さい教会の入口を作って、そこからものすごく小さい信者が出て来るところを撮影したり、道路に引かれた白線を雪に見立てて雪の風景に遊ぶちっこい人を配置したり、いろいろと面白いことをしている。写真を撮るだけではなく、このものすごーく小さいインスタレーションも街中にそのまま設置されているらしい(私たち巨人の目だと、見逃すことが多いのだが)。このアーティストにとっては、街全体がギャラリーであるばかりでなく、作品がものすごーーーーく小さいので、この町内だけで1000個くらい展示できるくらいにスペースは無限に広いのであり、「作品を展示するのに借金して銀座のギャラリーをなんとか借りたんだけど、スペースが狭くて...」なんていう芸術家特有の悩みとは全く関係ないところが美である。

そういえば、マルセル・デュシャンが晩年に、自分のそれまでの作品のミニチュアを収めた『トランクの中の箱』というのを作ってたなあ。<移動式携帯美術館>というコンセプトで。自分の作った作品をドールハウスのサイズに貶めてそれを上から見て遊ぶ。チェスの感覚かしら。まあ、Slinkachuならばミニチュア化せずとも、彼の全作品が一つのトランクの中に収まるであろう。
モノの洪水の中で、そこまでコンパクトに小さくいけるって、悪くない。