ゴジラの足

桜が開くとおもいきや、数日の雪、更に数日の冷たい雨、その末にやってきた晴天。斜めの高いところから注ぐ目覚めた美女のような日射し。ふと見れば枯れ草が踏みしだかれた駐車場のフェンスの網の破れた辺りにロビンが一羽。暁の空の如き胸の柔らかい羽毛を風に靡かせて。鳥の声いつもより賑やかに。高く。透明な青空にくっきりと映える雪山の稜線。これはひょっとして...、と胸をときめかせながら横断歩道を渡ると、向うからやってきた若い女性のジーンズの裾から裸足のゴム草履がちらりと見えた。間違いなし。バンクーバーでは春一番よりもゴム草履。こいつが出たら、その日が春の最初の日ということで決定。(ちなみに夏の到来は、「上半身裸の男」の出現日ということに勝手に決めている。こちらでは、陽気がよくなると、よくそういうオッサンが街中に出現する)

わーいわーい。春が来た。
こんなに眩しい日は、地面も空も、下から上に向って万歳してる樹々の皆さんも、早くも冬眠を終え走り出したリスのしっぽの毛も、陽気に浮かれてなんとなく外に出て徘徊している男女の面影も、みんなどこかわくわくして、新しいサイクルのはじまりの嬉しさに居ても立ってもいられないという風情でゆらゆらと揺れている。

さて、この晴れ空を逃しては、とばかり、バンクーバー市内から車で3-40分、サイプレスマウンテンのスノーシューイングなるものを体験して来た。
スノーシューとは日本で言うと樏(かんじき)。自分のような雪国出身者にはおなじみのものだが、都会の人には「マタギのおじさんが山に分け入って行く時に足がズボっと雪に嵌って抜けなくなっちゃうなどというアクシデントを防ぎ、雪山を自在に歩くため履いている網みたいな形の器具」というとなんとなく「ああ、あれか」とイメージできるかな。私は「かんじき」という言葉を聞くと、ぼんぼん横殴りに降りしきる牡丹雪、そのままだと家から道路までが雪に埋め尽くされて家が隔離されちゃうという非常事態、それで仕方なく寒い中かんじきを履き、外に出てよっこらよっこら、凍えながら道をつけるの小学生の自分の図〜(だいたいそれは父母の役割であったが)がすぐに浮かび、あんまり楽しい気分にはなれない。ただ、やっぱりその頃も、かんじきをつけると変な歩き方になるのが面白く、しかもどんな新雪の中にもぎゅるる、ぎゅるると入って行けるので、やっぱりそれは楽しくもあった。

で、所変わってスノーシュー。こっちだってももともとは生活と密接に結びついた必要性から生まれたのだろうが、今はウィンターエンターテイメントの一つとして、スノーボード、スキー、クロスカントリーなんかに並んでスノーシューイングなどというものがスポーツ感覚で楽しまれているのである。

山に到着、スノーシューを借りる。金属のパイプで胴体が出来ていて、合成皮革が張ってあり、形は細長く、ちょっと短めの橇のような形。裏側にはギザギザの怪獣の歯みたいな巨大な銀色のスパイクがでっぱっていて、このスパイクを使うことでかなりの急勾配の山も登ったり降りたりできるようにデザインされている。なかなかカッコいい。これにスキーのストックを持って行く。ストックは持たずに、スノーシューだけで歩き回っている人も多々。

雪山を「歩く」というのはやってみるまで深く考えても見なかったのだが、初めての体験だった。登ったり、下ったり、山を歩き回るという点ではトレッキングに似てるのだけれど、一面の白銀なので風景のミニマル度がもっと高い。道も、道の横も、あっちも、ずーっと向うも、白。白。春の太陽に惜しげもなく照らされた最高の笑顔の白。また白。この白の中についた獣道のようなルートに沿って、時にはかなりの傾斜に耐えつつ、ガリッ、ガリッ、ガッ、ガッ、ン、ン、ンと踏み入り、分け入ってゆく。雪の表面はかなり硬く、氷砂糖を連想する。息が上がる。転ばないように注意、歩く、歩く、歩く。雪のしぶきが跳ね上がる。意識を歩くことに集中しないと怪我するくらいの傾斜を何時間も黙々と歩くというシンプルさがトレッキングの一つの魅力だが、スノーシューイングはそれをもっともっとシンプルにしたような具合で、雪の白とそこからすっと伸びた樹々と、木漏れ日と空、光、ただそれだけの世界を3時間近く、はあはあ、ぜーぜーと歩き回っているうちに、ちょっとしたメディテーション、なんだか内側が外側になり、外側が内側になるような逆転が起こって、内側まで雪の白さが入り込んで来た。ひーひー、体が心が、もうただただ、白の中を進んで行く。

スノーシューを着けていると、確かに雪の上は歩きやすいのだが、足跡はゴジラ大(ってかチビゴジラ大)になるわけで、ちょこちょこと内股でおしとやかに...というわけにはいかず、ちょっとがに股系でノッシノッシと歩くことになる。なんだか足だけゴジラになったような不思議な気分。そのうち、すっかりゴジラに気持ちになってる自分がいて、更に楽しくなってノシノシノシっと右に緩く曲がる獣道を駆け下りた。こんな風に体の一部だけ、誰かになってみるのって面白い。手がゴジラだったらこんな風にパソコンも打てないだろうなあ。背丈がゴジラだったら、地面の花を摘み取るのが難しいけれど、雲の匂いは知っているだろう。足がアリだったら、目がアリだったら。身長が10センチくらいなら。子供がお腹にいるお母さんなら。眼が見えなかったら。

ゴジラの足でノシノシノシ、ガハハハハと雪山に踏み入りながら、どうやら現実というものは、世界というものは一つではなくて複数あるらしいと、ゴジラの頭が呟いた。晴天。どこまでも晴天。