DATと青春の終焉

チャクッ、ヅヅヅ、ドド、ゴワーン。
頭の中で何かが崩壊した音が聞こえた。ような気がした。

10年来愛用していたDAT機が突然その律儀な再生活動を停止し、何度ヘッドクリーナーで掃除しても、テレビで言うと走査線が乱れて画像が砂嵐に襲われ、パンダの顔が面長で邪悪なアライグマに見えたり、四角い豆腐がS字豆腐になったりするあの感じで、焦点が合ったと思うとザラザラとしたノイズに切り裂かれ、ビッ、ビッという鋭利なデジタルの嗚咽がひっきりなしに背後の音世界を覆い隠し、寝起きのフランシス・ベーコンが描く世界の如く溶けて流れて分裂し、音と呼ぶことすら遠慮したくなるような世界の切れ端が虚ろに浮かぶのみになってしまった。

突然って言ってもしかし、2005年には既にSonyは民生用DATの製造中止してるんだし、こういう事態は十分に予測されたことではあった。とはいえ、旅行の前日の深夜すぎまで荷造りができてないとか、公演の当日の午後まで作品作ってるとか、寿命の前日でもまだ35年前にもらったパンフレットが捨てられないとか、そういう暢気な性格のせいで、それを人は無思慮、無計画、自堕落などとも呼んだりもするのだが、何の心の準備も、具体的な対策もないままに、わたしのDATちゃんは、突然やーめたーっと生存を辞めてしまったのだ。

そんな風にして今目の前で沈黙している愛機はSonyのTCD-D8。もう一つTCD-D100というのも持っているが、こちらの方は既に7-8年前に調子が悪くなって、それ以来使っていないし、悲しいかな修理にも出していない。TCD-D100の方が、「DATウォークマン」の名に相応しい軽量サイズと都会的洗練! の知的メタリックボディなのであるが、なぜか私はTCD-D8のやや古くさく、東欧の機械工場で働く寡黙な若者のような堅牢なボディと「録音機」と呼びたくなるレトロなメカっぽさの方が好きで、主にこちらばかりを連れて旅をしてきた。

SONY TCD-D100 レコーディングDATウォークマン

SONY TCD-D100 レコーディングDATウォークマン

(こちらはスリムな都会派TCD-D100)

かなり無理させちゃったもんな。コレ人間だったら100歳は優に超えてる。
ボディを覆っているシェルを中身のメカと連結している小さなネジのいくつかは緩んで外れ、代わりのネジと差し替えてあったり、更にけしからんことには(自分でやったんだけど)外れたネジの部分を絶縁テープでとりあえず崩壊しないようにベタベタ補強までしてある。ごめんなさい、ボディの右側にキラキララメ入りさくらんぼシールをはっつけたのも私です。

この差し替えてあるネジはブリュッセルで公演のリハの時に(その当時、私はこのマシンをパフォーマンスの中で使っていたのです)ネジが外れてなくなって、蓋がよく閉まらなくなってるのを発見し、時間がない、どうしようと慌てた挙げ句、劇場の近くにあった時計屋さんに駆け込み、時計用だか眼鏡用だかのネジをねじこんでもらったんだった。その時、笑いながら代金すら請求しなかった時計屋さんの笑顔すらなんとなく覚えているのだが、人に歴史ありDATにストーリーあり、こいつもまた私と一緒にいろんな冒険をしたのであったなあ。

一つ、終わった。青春なんて今更言うのもなんだけど、この爽やかな汗をきらめかせながら田畑を耕す青年の筋肉の如きTCD-D8は、間違いなく一つの青春であった。

見れば見る程、満身創痍な彼。よくここまで一緒に来てくれた。ありがとう。