正解が一つだなんてのは嘘だ。

久々に映画宵。
Vancouver Asian Film Festivalのオープニング映画を観た。
『Almost Perfect』というアメリカ映画。
この映画祭は、北米で作られたアジアの映画を多くプログラムするのが特徴である。
要するに、監督がアジア系のアメリカ人もしくはカナダ人であったり、アジアを主題にしたものであっても制作が北米だったり、という映画が中心で、アジアの国に住むアジア人の監督の作品はほとんど上映されない映画祭なのだ。

去年もこの映画祭の映画を何本か観たのだけれど、存在しなかった自分の過去の記憶を他人に指摘されたような、皮膚の裏表をひっくり返された上でまた貼付けられたような、何とも言えぬヘンな感覚があって、自分がアジア人(特に日本人)だと何の疑問もなく思っていた、その自分自身のアイデンティティの置き場であった場所がユラユラした。

こんな時、自分を「アジア人」「日本人」といったラベルと結びつけている感覚というのは、固有の個人的な歴史や環境から作られてきたものにすぎず、それは何千何億とある中の一つの世界の見え方でしかないのかもしれない、そんなことを思う。日本人、とひとからげにして語るのだって、本当は無数の角度や反映があって、あれが正しくてこちらが間違い、などということはないのだ、たぶん。何を恐れて、人は一つだけを正解として、他を排除するのだろうか。