ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと

朝から、派手に雨が降っている。それでも今日はなんだかそわそわしている。夜になったら2本立ての映画を観に行くから。雨の夜わざわざ出掛けて映画を観るというのも足は濡れるし冷たいし、ぶらぶら散歩もできないし、余程のことがないと重い腰が上がらないのだけれど。今日は重い腰が上がる前に、ふわりと地面からカラダが浮上。まだ昼の最中から、上空をぐるぐる飛んでいた。

二本立てのシネマテークは、雨の水曜日の夜にしては大入り。暖房がすごく効いていて、空気が柔らかい枕みたいに抱きついて来る。一本目の上映は5分遅れて開始。サスペンスだー、スキャンダルだー、ヤバいのだー、という、まさにそれ自体が音になった如きセンセーショナルな輪郭のサウンドトラックでいきなり始まった映画はこちら。

トリュフォーヒッチコック風に作った心理サスペンスメロドラマ、というところで、あっちゃこっちゃしてなんとなく破綻してる感じもあるんだけど、シーン展開のスピード感とベルモンド+ドヌーヴの存在感だけでも結構楽しめるし、いろんな映画から引用されたらしきネタ満載なので知ってると尚更楽しめそう。意外な展開と意外なタイミングであっけらかんと起こる殺人シーンでは客席から「はは」と乾いた笑い声が漏れていた。二人がじゃれあったり、いがみあったりなどなど、ストーリー展開がちょっと滞って、二人の普通の時間がフっと立ち上がるようなところが特に良い。そういう瞬間に、俳優の匂いみたいなものが、意図を超えて記録されているから。

さて。

一本目をさらりと見た後、姿勢を正し、息を整え、ポップコーンなんかガサガサやってる周囲の客をものすごい形相で睨みつつ、でも心を澄ませて沈みゆく闇の中に浮かんだのがこの映画。

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タルコフスキーはたぶん一番好きな映画監督(の一人)なのだけれど、彼の映画を映画館のスクリーンで見たのは数える程しかなくて、この映画もこれまで一度も劇場で見たことがなかった。おおー。やっぱり映画は家庭の小さなモニターなんかで見てはいけないよなあ。光と闇の濃さが、全然違うもの。そして音。タルコフスキーの映画がなんで好きかというと、映像と音との関係が生み出す緊張感の中に、タルコフスキー自身が息を潜めているような感じがいつもあって、息を潜め、じっと見つめ、耳を極限まで開くことでしか見えたり聞こえたりしないものが、そこ(映画の中? スクリーンの上? それとも私の奥の奥の方?)にぽっと浮かぶから。足音を潜めたカメラのゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりとしたした動き。時間の肌理の中に少しずつ入って行くと、もうそこでは時間という概念すらなくなっているらしかった。音楽だな、このカメラの運動自体が。

とても、懐かしい感じがする。一度だって自分のこの世界での過去では見たことがない風景であるはずなのに。もっともっと昔、それとも、もっともっと高い、深い、遠いところで、その場所に「居た」ことがあるような気がする。私の原風景ではなくて、魂の原風景なのか、これは。ああ懐かしい。と、そう、私の中の私ですらないような声が、そう言って、ぼおっと佇んでいる。佇んでいる場所は、もうVのシネマテークの中ではないらしく、ああ、これが永遠という場所なのか、と私はそれをちょっと横から垣間見て、感動する。

これは、もしかしたら、子供の時間というものかしら。大人の中で生き続けている子供の瞳のクリスタルの透明度。大人になっても子供の目が死なないということは、でもものすごく痛いことなのかもしれない。タルコフスキーの中に子供がずっと居たことは間違いないけれど。そして、ざっくりと世界に刻まれた痛みを痛みで終わらせずに、息を潜めて、丁寧に丁寧にどこまでも祈りに近い静寂を護って進んで行った。痛みの先にあるものは、それはそれは透明な光や水、グラスの反映。あの遠い日には名付けることができず、やっぱり今日も名付けることのできそうにない曖昧な感動。泣いてしまうしれないけれど、もはや痛みですらなくて、どこまでも懐かしく愛おしいものが風に靡く柔らかいカーテンの向う側あたりに待っているらしい。そこまで、魂が光へともう一度辿りつけるところまで、彼は進んで行った。何にも屈することなく。ただ、光がそこに静かにあることだけを信じて。宗教だな、もはや。

外に出ると雨。11時半。しばらく言葉を忘れたみたいだった。