出たがりなのは低血圧が原因です

楽しい一日とは、こんな一日を言うのだろうか、というような一日を過ごす。人と会話する楽しさ、街をぶらぶらする楽しさ、5月の透明な光の中を歩く楽しさ、誰かが心を込めて作った美味しいものを食べる楽しさ。ウィンドウショッピングをする楽しさ。ファッションの楽しさ。アートなどという名の下に、巨大なゴジラの風船と踊っている男を見る楽しさ。こんな日は、世界全体が巨大な遊び場に見える。あっちの砂場で地面をほっくり返している子供、こっちのブランコで風を切っている子供。さっきから花に向って一生懸命お喋りしている子供。ただ、なんだかよくわからないが、ダアアアっと言いながら、目がへへの形になって笑顔で走り回っている子供。今日は、世界がそんな子供達で埋め尽くされた愉快怪奇な遊戯場だと信じることができるのだ。

もちろん、路地裏にはいつも通りホームレスと麻薬中毒者が群れをなし、ビジネスマンは窮屈らしいスーツ顔で交差点を渡る。それでもなお、本日現在の世界はなんだか空気の一片一片、樹々の揺れる影の隅々までも、目には見えぬ光線をパチパチと散らし、クスクスと笑っているように軽い。晴天。楽しい人々との出会い。語らい。でも、それだけなのかしら。なんだか、こう。違うのだなあ。知的歓楽によって満たされた脳細胞の一つ一つのクスクス笑いだな、これは。おとといだって、その前の日だって、世界は同じようにそこにあったのに、私の脳はそれを青みがかった灰色の重さとして感じるばかりで、特別それを明るいとも楽しいとも思わなかった。今日は同じその世界が「あーそーぼ」と玄関先に駆け込んで来る2本ちょんまげの少女のように振る舞っている。と、この少女はどうやら私の脳であり、私の脳が創り出したものであり、私自身でもあるらしかった。世界というものは、私によって、私の中の2本ちょんまげの気分によって、ここまで変わるものなのか、と唖然としている。

なんつって、よく分かんない事をぐだぐだ言っているけど、要するに、ちょっと世界が明るく見えるのです、本日。そしてそれは、昨日一昨日そのまた前日辺りに出会った人々との交歓あるいは交感、言葉の、笑顔の、知の、物語の、エネルギーの交換によって起こった脳内変化によるものらしく。ま、興奮状態なんですな。きゃいんきゃいんと、頭の中の犬が跳ね回っている。そして心拍数が上がり、血圧が上がり、どうやら脳内にアドレナリン族が村の祭りだ、豊作だ、とばかり出動しているらしく、その歓喜の雄叫び滅茶苦茶踊りなどの効果により、世界の肌はワントーン明るくなり、昨日まで鏡を見ては「ああ、なんだか冴えないわ」と溜息を漏らしていた青白い女の頬のくすみがシール一枚剥がしたようにぺろりと消え、ああ、これならばノーメイクで外に出てもいいのじゃないのかしら、生のままで素のままで、などと心弾み、なぜかしらず、いつのまにか顔がニヤニヤしている、アブナイおじさんすら登場。

と、かなり分裂しているようでもあり、あなた、そんなに興奮して浮かれて大丈夫? と道行く猫がしれっとした視線で問うのだが、ああ。大丈夫ですよ。分かっているのです。自分でも。ってのはね。

当方、ものすごい低血圧であって、普段何もしていないときには、下が60上が90などという、それで血液が全身巡ってるんだろうか、と不安になるような数値を示す。要するに、爬虫類が哺乳類のフリをして無理しているような効率の悪い血圧レベルが私の日常。そこでは常に世界は少し青く。灰色を帯び、少しだけ足をひきずって見える。それが、きららかな人のエネルギーに触れ、知的興奮を与えられ、アドレナリン族が出動すると、血圧が上がり、体の全ての調整機能の目盛りがグワンと振り切れ、世界がワントーン明るくなり、風が笑い、雲があっかんべえをする。ああ、気持ちいいなあ。生きてるっていう感じがするなあ。と、体温と心拍数が少し上がった蛙の目がうっとりする。

この状態は世にいう「興奮状態」もしくは「欣喜雀躍状態」、「浮かれポンチキ状態」なのであるが、本来血圧が異常に低い私にとっては、この過剰とも思われる興奮状態が人並みの血圧およびその血圧によって見える世界の明るさに到達できる唯一の瞬間なのであり、ようやく全身に血が巡り、滞っていたホルモンが分泌され...ああ、気持ちいいという瞬間なのだ。

パフォーマンスだの、舞台だの、ライブだのと言って、上がり性なのにも関わらず私がやたら出たがりなのは、大勢の人前で何かをしなければならないという興奮状態、「上がっている」状態、そして更に、舞台の上でハイになり、スポットライトのパンチを受け、観客の視線の矢印に全身を射抜かれ、心拍血圧バクバクの状態になってようやく、日常の低血圧状態では全く感じることのできない、人並みの「生きている」感じをかろうじて感じることができるからなのだ。なんとも効率の悪い人生ではあるが。どうも、この低血圧症が私の出たがり性の原因らしい。舞台の上では、心臓がバクバク音をたて、乾いていた皮膚に血が巡りバリバリ音をたてながら剥がれ落ち、中から柔らかく鼓動しているものがぬるりと現われて爬虫類が哺乳類に変身する奇跡の瞬間。ああ、血が巡るってこういうことだったのね。ああ、血が熱い。ああ、脳細胞の速度が上がる。ああ、世界がきらめいている...

と、まあ、なんというか、かなり回りくどいですが。
ライブ、やめられまへん。パフォーマンスだのって、またやっちまいそう。生きてるって、時々感じたいからなあ。と、これは夢見る蛙の声。
まずは久々にアドレナリン族を派遣し血圧を押し上げてくれた、美しい人々に感謝。