hopeと彼はノートに書き留めた

日系カナダ人の友人W女と茶店でちゃちゃちゃ。この人、父母共に日本人なので見かけは全くの日本人。でもカナダ人。日本語も少しできるけれど、会話はほとんど英語。時々、英語と日本語がちゃんぽんの会話が混じり込む。"Are you doing げんき?"とか"Are you really 困ってる?"とか。"No, it's 大丈夫。"とか。"It's really crappy, でしょ?"とか。二人とも傍から見るとかなり変なガイジンだ。って、彼女はカナダ人だから、ここではガイジンじゃないけど。

彼女の話で最高に好きなのが、若い頃、日本に一年くらい英語を教えに行った時の武勇談。外国人が日本に英語を教えに行くJETプログラムに参加しての渡日だったらしいけど、なんの因果かものすごい田舎の、不良落ちこぼれの終着駅のような男子校の担当になり、英語って言う前にこれマジでやばいよという荒れ果てたクラスルームで茶髪眉ぞりチェーン落書きなどが横行。しかも、金髪ねーちゃんの先生かと期待してたのによお、なんであんた日本人なんだよ。どこが外国人なんだっつーの? となめられるし。子供の頃から憧れていた日本の地で待っていたのは、なんと『ごくせん』英語版のような過酷な毎日だった! のだそうだ。

で、疲れ切って田舎町をぶらつけば、日本人の顔形なのに日本語が不自由なので、町中の人からも変な目で見られるし。と、そんな八方塞がりの試練の中でもめげずに、先生の話をなーんも聞いていない生徒達に向って、毎日気力を奮い起こして健気に授業をし続けてたんだそうだ。BGMはチャリーン、チャリーン(不良が先生睨みつけながらチェーン鳴らしてる音)。あれ、でもなんだろう、あっちを向いたりこっちを蹴ったり殴ったり、私語罵声が飛び交い入り乱れる滅茶苦茶アクションペインティングのようなノイズで覆われた教室の一角に、あれ、もしかして。なんだかこっちの話を聞いているらしき人が一人。左手にはまだチェーンを握りしめているが、右手では、えええ、まさか。ノート取らなかった、今? 教室の全員のノートがグラフィティーと世界への呪いの言葉で埋め尽くされているというこの断末魔のクラスルームで、君、ひょっとして今私が黒板に書いた"hope"っていう単語を、先の丸くなったHBの鉛筆で、やたらちまちまと書き写さなかった?

奇跡は起こった。hopeという文字は彼のノートに刻まれたのである。彼女はここで既に嬉し涙が零れそうだった。しかし、なんとこのチェーン男は、「...せんせー、おれ、えいごできるようになりてーんだ...」と、ボソボソ声である日彼女に語りすらしたのである。恐るべし。目的なくして勉学なし。英語なんっつーものは、日本の片田舎における日常生活では普通何の役にもたたないものであるからして、クラスの99.9%のチェーン男たちには全く興味も関心もない時間の無駄であったのだが、髪の毛を思いっきり突っ立てて、一際ワルそうなこのチェーン君改めホープ君には、英語ができるようになりたい実利的な理由、興味、目的、情熱があったのだ。ロックンローラーの卵だったのです、彼。ロックンローラーたるもの、日本語でたらたらと子音母音子音母音なんて歌っちゃいられない。ロックと言えば英語。カックイイのだ。ハードなのだ。魂なのだ。命なのだ。そう、このオレの、ササクレだった心を曝け出し、向けどころのない怒りを爆発させる道はたった一つしかない。ロックンロール。オレの存在そのもの、生きている意味の全てがロックンロール。ロックが死んだらオレも死ぬ。ロックができなきゃオレは死ぬ。英語ができなきゃオレは負け犬。ちくしょお。できるようになりてーよ。せんこー、ひとつ頼むぜ。オレは死にたくねえ。生きていたいんだよお。苦しいぜ。ちくしょう。オレは、ちくしょう。やるぜ。

という話だったんだそうだ。

日本とカナダの狭間でアイデンティティーを見失い悶々としている女教師と、落ちこぼれが集まる田舎の蟻地獄高校でアイデンティティーをなんとか見つけようとしてもがきあがいているチェーン&ロック君が、人生の中でクロスオーバーした瞬間だったんだなあ、これ。彼女は彼の存在によって魂の救いを得て、彼もまた、「おめえ、あほじゃね。べんきょうなんて、だせえ」と茶々を入れる不良連をかき分けながら、death、love、despair、hopeなんていう単語をちまちまとノートに書き写しつつ、ただのチェーンからロック&チェーンへと成長し、そして遂にはロック&ホープへと生まれ変わったのである。感動。

ある日、ロック&ホープが気まずそうに彼女に寄って来て「せんせー、コレ」と渡したのはコンサートのチラシ。彼のロックンロール・デビューのギグであった。会場にでかけた彼女の前には、髪の毛を突っ立てながら、英語の歌詞をシャウトする一人のロッカーの姿が。眼が潤む。発音も結構イケてる。大きくなったわね、ホープ。じーん。ああ、生きててよかった。ああ、彼一人だけでも、hopeという文字を覚えてくれてよかった...。

と、辛い事ばかりが多い日本滞在で、その後数年に渡り日本のことを考えるのさえイヤというトラウマ状態に陥った彼女の、唯一の心温まる思い出がこのロック&ホープとの出会いだったのである。

なんだか映画かTVドラマのような話であるが、あるんですねえこういう人生のクロスオーバー。この話を聞くと、いつも目的なくして勉学なしだなあ、と思い、見てもいないのにやたら鮮やかに浮かんで来るシーンをいつか物語にでも書き留めて(下手すると『ごくせん』になっちゃうけど)、ロック&ホープがその後どうなったのか、空想してみたいなあと思うのでした。