痛恨のステップ!

朝っぱらからずっとラボでヤスリがけなんかやってたので、右手の親指と人差し指の感覚がない。しかもずっと変な格好で体を捩っていたせいか、肩が猛烈に凝っている。天気が良いので窓から陽は射して来るが、長時間ずっと埃っぽい部屋でポツンと作業してると、どうも世界から切り離されてくる感じ。しかもこのヤスリがけってのが、単純作業っていうか、根気仕事っていうか。同じ動きの連続。そしてほんの少しずつ削れて粉になって落ちて行く物体。ほんの少しずつ。これを毎日やっておられる職人さんの根気ってのはどんなもんなんだろうかと気が遠くなる。

かなりオブジェの表面がすべすべになってきた。でもまだちょっとこっちが凹んでるなあ、あっちが歪んでるなあなどと、まあなんだかんだと5時間くらいヤスリを掛けてたのであるが。

お、まずい。間にあわない。今日はタップの発表会じゃあないか。と、大急ぎでシャワーを浴びて身に降り掛かった白い粉末を洗い落とし、即席の夕飯を胃に流し込む。コスチュームは70年代風のくれーじーシャツという先生の指定があったんだけど、そんなもんもってないってー、と叫びながら、なんだかよくわかんない赤黒の太横縞ピタTシャツに黒パンツに着替える。なんか違うなあ。これはどう見ても80年代だよなあ。しかし、もうそんなことを言ってる暇はない。超高速でアイラインを引いて、まつげを反らし、やっぱりこんな時のために、70年代クレージーシャツは常備しておかねば。などとよくわかんない反省をぐるぐると頭に巡らせながら、時代錯誤な私はタッタカターっと会場であるダンススタジオへと急いだのだった。

発表会といっても、実はこれ、ダンススタジオのオープンハウスなるもので、まあ要するに、スタジオの宣伝の一環で、タップの他にもミュージカルダンスだの、プッシーキャッツヒップホップだの、モダンだのといったいろんなクラスの生徒が一演目づつ踊るという、そういう催し。恐ろしいことに、入場料を取っている。素人の踊りに入場料とは強気な。一体誰がそんなものお金を払ってまで見に来るのか? とどうも腑に落ちないのだが、私が到着した時には観客の長蛇の列。私だったらお金貰っても見たくないのに...、などと失礼なことを思いながら中に入ろうとすると、係のおっさんに「あんた今夜のショーのダンサー?」と足止めされた。「そーだよ。タップだよ」と横柄に答えると「先生、誰?」。んーっっと、先生の名前なんだっけ? 先生の名前すら覚えていない生徒が踊るダンスショーを金払って見せられるお客さんは不運である。その前に先生の名前が分かんないと入れてもらえない私は惨めである。たぶん...じゃなかったかなと思われる適当な名前を思いついて「エリスさんのクラス」とか言ったら、「え?」「エリスだよ」一瞬おじさんは怯んだが、私があんまり堂々としてたんで入れてくれた。後から調べたら先生の名前はエリスじゃなくてトロイさんだった。全然違うじゃーん。ははは。まあいいか、中に入れたしね。

いつもは別々にクラスを受けている上級クラスの人たちとも、今日は一緒の舞台。さすが、ステップが軽やかだな、この方々。私がようやく一回タン! とやるタイミングで彼女らはタタタタタッタとか七連打くらいやっている。でも、私のイメージしてたくれーじー70年代をビシっと決めてる人はほとんど居なくて、なんか全体にうすぼけた古着屋の一角みたいな印象になっているなあ。と思っていたら、何か目の前に颯爽としたものが登場。同じクラスを受講している背の高い金髪短髪の女子が、黒ズボンに白シャツ、襟元に派手柄紅色クレージーなスカーフを靡かせている。その上に金具がバリバリについた細身の革ジャン。この黒革ジャン、所々に白ラインが入っていてなんてーか、ものすごく不良かつノーブルな感じを醸している。一瞬「宝塚!」と叫びそうになった。何しろ上背があるので、このまま入団テスト合格モノの見栄えである。そうか、オースティンパワーみたいな格好すれば良かったのか。どうも70年代のイメージが沸かなかったのだが。と、70年代の横で80年代を着てファッションの歴史表みたいになりながら、またまた反省。

この宝塚なねーちゃんとおしゃべりしながら出番を待つ。周りには何やら動物のようなものがうじゃうじゃ蠢いているな。と思ったら、ダンサーでした。ソファーにどっかと腰掛けて歓談しているのは私たちくらいのもんで、モダンやプッシーキャットーやミュージカルやバーレスクな人々は、床を転がり回ったり、野獣のように体をくねらせたり、太ももをキワキワのところまで曝け出して180度上に上げたりして、出番の前にもうステージ10回分くらいの運動量を動き回っている。本来タッパーもウォーミングアップすべきなのだろうが、一回タップシューズを履いてしまうと、どこに行くにも「タタタアタタタア」という音がついてくるので、なんとなく動いちゃいけないような気持ちになるんだよね。

私のクラスでこのオープンハウスショーに参加したのは私と宝塚ねーちゃんともう一人の背の高い男子。彼はものすごく緊張しているのか、何なのかよくわからないのだが、挨拶もなければ笑顔もなく、さっきから顔を硬直+紅潮させてあっちこっちウロウロしている。宝塚ねーちゃんが思わず「彼ってなんかカンジ悪くね?」と言ったので、なあんだ、外国人でもやっぱりそう思うのかとちょっと安心した。感じ悪いよ、そこの君。宝塚ねーちゃん情報では、この青年はミュージカルシアターかなんかマジでやってる人で、タップも遊びでやってるんじゃないから、今日のショーもドマジなんじゃないかってことだった。私たちは楽しければいーんだもんねー、とか二人でおだべりしてると「はい、タッパーさんたち、出番5分!」というブタカンの声。

おお。そういえば、最近はミニチュアを使った舞台作品だとか、ラボに籠ってヤスリがけだとか、自分自身がスポットライト浴びるような機会があんまりなかったもんなあ。かなり興奮。この感じ。舞台生ライブパフォーマンスその場っきりの時間芸術! 舞台裏にスタンバってると久々にアドレナリンの蛇口が開いたようで、わくわくっとしてくる。生きてるなあ、と思うんだよな、この瞬間。やめられまへんなあ。ミュージック・オン。宝塚ねーちゃんは「笑顔、笑顔!!!」とか叫んでいる。にーちゃんはまだやっぱり顔が硬直+紅潮。堅くなってるってのはこの人のためにある言葉かと思うくらい、気持ち悪くなってぶっ倒れそうな表情で出を待っている。このタップダンスショー、初級から上級のクラスの混合パフォーマンスで、それぞれがちょっと見せ場を踊っては、次のクラスに場を譲るという感じの構成になっている。私たち中級クラスは初級クラスの後に登場。高鳴るビート。よし、ここだ。キュー。と、舞台に躍り出た!

にーちゃん、ねーちゃん、私の順。と、前を行くにーちゃんがなぜかこっちを睨んで「もっとあっちあっち」みたいな気を送って来る。ああん? あんまり場所詰めるなってこと? なんて思っているうちに、出だしのステップ間違えた! 

んもうー、にいちゃん、止してよ緊張の押し売りは...なんて思っている暇もない。でも、こんな時は昔取った杵柄とかや。誤摩化すのは今や得意中の得意。0.5カウントくらいでうまくミュージックに乗る。っと、思ったが、やっぱり出だしでコケたのが心理的痛手となったのか、いつもは何にも考えなくても踏めていたステップがちょっとロレロレに。最初のジャンプで尻餅をついても、次に3回転半を決めるフィギュアスケーターは偉大だ、などとそんなことを考えている暇はない。ここも上手く誤摩化し、後はとにかく音楽に乗って、できる限りの笑顔でカバー。失敗すると、その分を取り戻そうとして、ちょっと表現が大袈裟になっちゃったりもするのだが、取りあえずその後は間違えずに上級クラスにバトンタッチ。

まあ、踊っていたのは時間にしたら3分くらいなんじゃないだろうか。その数少ないステップのうちの2つミス。これはトリプルアクセルトリプルルッツの両方でコケたようなものである(そんなに難易度高くないけど)。ちょっと悔しいなあ。やっぱりもっと真面目に練習しとけばよかった...と思うのはいつものことだが、終わった後にやたらに息が上がっているのと、足がガクガクになっていたのに驚いた。まあ、非常に初歩的な「発表会にありがち」な状況とも言えるのだが、他の人につられて失敗。そして根本的な練習不足による精神的な弱さが出て、更にミスを重ね、なんとかそのミスをカバーしようと力み過ぎて、無意味な緊張と誇張。観客にはこちらの躍動するエネルギーよりも緊張するエネルギーのみがガッチンガッチン伝わった可能性大。でもまあ。久しぶりの踊るステージ。楽しかったな。アドレナリンがもう耳の穴から垂れて来そうなくらい噴出している。

やばいな。
もっと踊りたいとか思っている自分がいた。
今度こそ。あの痛恨のステップのリベンジを...なんてやたら息巻いて。
踊る前にぶっ倒れそうになっていたにーちゃんがその後どうなったのかを見届けるの忘れてた。
笑顔が出たのか。それともそのままぶっ倒れたのか。
舞台は魔物ですよ。その魔力に取り憑かれたら大変。
ほらまた皿洗いながら足がステップ踏んでる。