桜は命がけで突っ立って咲く

ダウンタウンまで歩く。バラード通りに屋台を出している「ジャパドッグ」に並んで夕食。こちら日本人経営者による人気店で、ジャパナイズしたホットドッグを販売。テリマヨドッグ、オロシドッグ、ミソマヨドッグなどというものを、人種のモザイクV市の住人たち+世界各地からの観光客が頬張っている姿を見るのはなかなかの壮観。もみ海苔が風に舞い、カイワレが揺れる。売り子はワーホリの日本人の女の子たち。「サンキューベリマッチ!」と声高らかに、笑顔のサービス。元気に頑張っている。前にも後ろにも「ミーソマヨ、プリーズ」などという英語による注文が響く中、一人日本語で注文する私。何だか逆に日本語を話すのが照れくさく、しかも私が注文したのは黒豚テリマヨなる特注ドッグ。脳の中の配線がどうも上手くいかないらしく、口の筋肉がもつれて「くらぶとてりまよ、あれ、くろぶたてり? てりまよ、お願いします」と言いまつがえ。売り子の女の子に笑われた。旨い。おととい登場の松岡正剛旦那のお墨付きが出そうな、まさに「日本流」合格の味である。

さて、夕餉時になんでこんなとこで黒豚など食べているかというと、今夜は映画宵。バンクーバーの北西に居住する日本女子M嬢が、なかなかいい映画だから観に行ったらいかが、と勧めてくれた映画へと向う途中なのだ。昨年のV市国際映画祭で人気の高かった、ドイツ人監督Doris Dörrieによる『Cherry Blossoms - Hanami』の再上映週間。もちろん桜の季節にぶつけての上映なんだけど、タイトルからも想像できるように、この映画の中には日本が登場する。

冒頭ショットでレントゲン図が映り、主人公男性が不治の病に犯され、余命少ないことが語られる。お、ちょっとテオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』みたいだなあ、と思っていると、彼の娘や息子がこの父親にとーっても冷たいってとこも似てるぞよ。これって普遍のテーマなのかしら。そう言えば小津も。なんて思い始めると、どうやらこの映画の前半は小津安二郎東京物語』のドイツ版という趣向らしい。病気の夫(彼はそれを知らない)とその妻は、子供達の住むベルリンに遊山に出掛けるのだが、その子供達誰一人として、両親を歓迎しておらず、皆忙しくてベルリン観光に両親を連れ出す時間すらない。そこで、娘のパートナー(ここではレズビアンの女性)が気の毒に思ってベルリンを案内して回るって設定も、捻ってあるけどちょっと東京物語の展開に似ている。

でも、突然、元気だったはずの妻の方が急死してしまった後の後半は、どちらかと言うと『永遠と一日』の世界に入っていく。妻を亡くして呆然とする夫は、妻が生前一番行きたかった場所、日本にやってくる。末息子が東京でビジネスマンをやっているという設定である。このおじさんが頼みの末息子にも冷たくされて、新宿の街を一人フラフラする。妻の死の混乱もあって、もうなんだかよく分かんなくなって、新宿のノーパンキャバレーに行ったり、ソープランドでいきなり体洗ってもらってたり、絶望と新宿歌舞伎町がここまでマッチするとはね、という衝撃映像が続く。そして、遂にはこのおじさん、舞踏ダンサーになるのが夢だった妻の遺品のセーターとスカートをコートの下に着込み、物狂い放心の態で桜見物して回る。外国人の目に映る日本。現世とも思えぬような人々の営み。人。人。人。ビル。ビル。ビル。桜。そして青空。世界との接触を禁じられ、かといって完全に死に切れていない魂が中有に迷う如く、東京の街をエイリアンとして彷徨うおじさんが、やがて偶然にもう一人のエイリアンに出会う。桜の下で乱舞する美少女舞踏ダンサー。彼女は孤児ホームレスでもあるのだが、おじさんの最期の時間を意味あるものへと引き戻してくれるのが、この少女なのだ。この辺りも少し『永遠と一日』のことを思い出す。

さてさて、こんな風にあっちに似てる、こっちに似てるなどと言うと、だったらつまんないエーガなんですか、と思われそうだが、全然そんなことはない。普遍のテーマを扱っているから、あっちに似てたりこっちを思い出したりってことになってるだけで。そもそも、なんとなく展開がコレと似ている映画なんてこの2本以外にもいくらでもありそうだし、そんなことは本質とあんまり関係がない。この映画、印象的で鮮やかなショットはあちこちにあるものの、カメラワークが取り立てて良い訳でもなく、凡庸なシンボリズムを挟み込みすぎて冗長な感すらあるのだが、なぜかやたら泣けるんだよ。なんだかよくわからないが、やたら胸が詰まるんだよ。このボディーの反応。理屈なき涙。何がしかの浄化作用が起こっている。それが死と向き合うこと、生の儚さ、大切な人と過ごす時間のかけがえのなさ、取り返しのつかない喪失、といった人間の奥にある感情を鷲掴みにしているからなのか、それとも桜の下で儚げに踊る少女の細い腕や、満開の時を迎えて散り時を待つ桜の天蓋に青空、それだけでもう泣けるのか。どうにもよく分からないけれど、映画館内は鼻を啜る音があちら、こちらから。私の目からももうこぼれそうな程に盛り上がって、涙。

死んだ妻が今どこにいるのか分からないと嘆くおじさんに、舞踏少女は「誰でも舞踏は踊れる。死んだ人だって踊れる。私はいつも死んだ人たちと一緒に踊っている」なんていうことをこの世もあの世も見通したような目でさらりと言いながら、いつしか踊る体とは無縁だった真面目堅物のおじさんの体を舞踏へと導いて行く。土方巽の「舞踏とは命がけで突っ立った死体だ」っていうのや、寺山修司の「ぼくは不完全な死体として生まれ 何十年かかゝって 完全な死体となるのである」なんていう言葉がぴたりとこの映画の射程に入って来る。妻の憧れの地であった富士山を背景に、おじさんは妻の遺品の着物を纏い、妻と「ともに」舞踏する。最期の時間。命がけで突っ立ちながら。そして完全な死体となって、妻と永遠に寄り添いながら、滅びない生を獲得する。死という一つのメタモルフォーズを経過しながら。

主役陣の演技も素晴らしいが、美少女舞踏手を演じている入月絢がとても良い。うーん、この人どっかで見た事あるなあ、と思ったら、V市で玉野黄市の舞台があった時に、客演してた人だった。実はこの時、ちょっと縁あって、ほとんど飛び入り状態で玉野氏のソロ部分で能管を吹くことになり、作品に一緒に参加してたのでした。若さ可愛らしさとなんとも言えぬあの世感のある面白い人だ。座敷童のような。冥界の御使いの狐か何かのような。なんでもこの人、新進の美術家でもあるらしく、きっとこの世あの世を往来しつつ、これから更に私たちにいろいろと見えないものを見せてくれるのではないかと膨らむ期待。

ジャパドッグにHanami。いい具合に日本流な宵。M嬢に感謝。