毒虫退散、そしてリセット

また、リセットされた。何かが自分の中で。

作業台の上は、一ヵ月くらい前に片付けたんだけど、いつの間にか大量のモノがどこかから攻めて来て、空白という空白を占拠。ああーん、胡座をかいたり寝転んだり。欠伸しているヤツもいる。埃を被ってボサボサの頭をぼりぼり掻いてるヤツもいる。どうしてこんなにモノ達は横柄なんだかな。そして、何故にモノは放っておくと空間を占有するんだかな。まるで梅雨時に沸く羽虫かなんかのようである。キレイさっぱり片付けて、いい気分で油断していると、大体2週間くらいのサイクルでモノの交尾、産卵、羽化が始まるらしく、いつの間にかまたどこからともなく出現したモノたちで、作業台の表面は覆い尽くされている。

さて、今日はまず片付けから始めるか。害虫駆除だな、まるで。うーん、面倒臭い。でもまあ、モノのリセットなんてカワイイもんだ。意識のリセットに比べたら。そう、意識のリセットは眼にも見えず触れることもできないので、非常に厄介。例えば、このようなモノの羽化と同様のことが意識の中でも起こっているとしたら、どうでしょう。半日だらだらと中毒的ネットサーフした夕方辺りが、最も危ない。ワンクリック、100産卵。どうでもいいような情報虫の目つきの悪い卵が意識の柔らかい寝床に産みつけられ、そいつが湿り気のある襞の中にいやらしく深く潜り込む。そんなもんを抱えて日々生活してると思うとそれだけで吐き気がするが、そいつらがちょっと天気の悪いじめじめした日なんかにわらわらと孵化を開始して意識を占有。隙間という隙間をゴミ情報、俗っぽい興味、$マークのついたガラクタ、ゴシップ、享楽快楽、世俗的評価の胴間声などなどで埋め尽くし、それを放置すると、更に虫はどんどん増殖、やがて感性の中にまで虫の毒が浸透。心は麻痺し、何が美しくて、何がそうでないか、などといった一見分かりやすいような判断まで、なんとなく自信がなくなり、他人の評価に基づいてのみ自分の好みを決めるような症状が発症。また更に、虫のなあなあ毒のせいで、体も心も腑抜けになり、まあ適当に、どーでもいい。気力ない。真実? 美? 正義? なにそれアホっぽしゃらくさ。別に屑でもゴミでも構いません。どーせ自分もゴミか虫けらみたいなもんですし...というような、完全な投げやりモードへと坂を転がり堕ちてゆき、そうなったらもう、もともと態度の悪い虫達の思うツボ。こんな不潔な虫ごときに頭の中を掻き回されて虫喰いの一生を終えるという運命がそこに待っているのである。

まあ、それでもいいんじゃないの? と言っているアナタ。虫がいます。...なんて言っている私の頭の中にもかなりの虫が飛び回っている。一匹、二匹、いやもっとたくさん。そしてこいつらは毎日毎日、その領土拡大子孫繁栄を腹黒い腹をぷるぷるさせて計画しているのである。さて、どうするか。作業台の上の掃除とは違い、心や意識の中には手を突っ込んだり、殺虫剤をかけたり、ベタベタの虫取りリボンをぶら下げたりなんてことはできない。万事窮すと思いきや、なんと、そこで登場するのが、アート。どうやら、優れた芸術作品には、この腹黒い虫達に対する防虫効果が隠されているらしいのです。美術、音楽、演劇、映画など、ジャンルは問わず。ただし、アートと名札がつけられているものの全てにこの効果があるわけではないらしいので要注意。と言うよりむしろ、本物のアートというのは、それに触れると腹黒い虫達が退散するような力を持っているものであり(全くの独断です)、防虫効果不足なのは、アートのフリをしている何か別のものだってことなのかも知れません(これまた全くの独断)。それに触れると自分の中の何かがリセットされ、何もない空間と美味しい水、一陣の風と花とによる生命の原風景のようなものに我を立ち返らせてくれる、そんなアート。はあ。深呼吸。

と、思いっきり前置きが長くなったが、昨夜タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のDVDを観た。一番好きな映画監督。この人の映画を観ると、細胞の隅々までリセットされる。生まれる前のことを思い出す。死んだ後のことを思い起こす。世界は毒虫がギャアギャアと喚いているだけの場所ではなかったことを思い出し、散乱したモノでもなく作業台の表面でもない精神の流れというものがその奥に静かに流れていることを思い出し、芸術の力をもう一度信じられるようになる。世界は断片ではなく継続であることを思い出す。人間をもう一度信じたくなる。人間一人一人の、そして、その魂の透明な部分を。圧巻。冒頭のショットを2秒見ただけで毒虫退散。そしてリセット。