小さいもの礼賛

知り合いのオジサマとカフェで写真の話などしていたら、「あなたは、超接写レンズで、ものの一部を拡大したような写真とかやったら面白いかもねえ」と一言。
「こんなに広い世界がパーっと周りにあるのにさ、それなのに、このテーブルの上のこのパン屑みたいなとこにやたらズームインして見てるみたいな」
この知人はこれまで私が作ったものを全く見たことがない人だったのだが、まさに自分が数年前からやってることはそういうことだったので、大当たり〜カランカランカランと空中で鐘が鳴ったような気がした。

日本を離れ、いわゆる「世界」という世界に飛び出した時に頭の中にあったイメージはやっぱり、小→大、井の中の蛙→大海という図式だったと思うし、表現したいものがそれほどあるわけでもなかったが、なんとなくデカいものに憧れ、デカいものを作ってデカくなりたいと漠然と思っていた。「ビッグになろうぜ!」ということはあっても「スモールになろうぜ!」とは誰も言わない。アート界で名をなすにはもともとデカいエゴの更なる肥大が必須なのであり、大規模インスタレーション、巨大彫刻、大仕掛けのパフォーマンスと、大きいということはアーティストの権力・財力・影響力の裏付けとして一般的に歓迎され、評価されもすることなのだ。人間はデカいものに弱い。人間の大きさを遥かに超えたもの、にはほとんど無条件に畏敬の念を抱く。そういう心理をうまく利用したのがヒトラーであり、今でもベルリンの街を歩くと人間の身体感覚とはぜんぜん別の尺度で設計された巨大建築物にただただ圧倒される。善し悪しとか超えて「すげ。」と人間の思考を停止させてしまうような効果がデカいというファクターにはあるのだ。

私も、パフォーマーが100人くらい出演する大スペクタクルを作ってみたいとか、こっちからあっちまで300mくらいある巨大な倉庫かなにかで、観客の想像を絶するような恐ろしいスケールのインスタレーションをやって皆の度肝を抜いてみたいとか、そういうアートの本質とはあんまり関係もない愚かしい野心を恥ずかしながら持っていたのだが、いざ作品制作に取りかかってみると、結局パフォーマー3人&舞台は5m角という、やけにこぢんまりした舞台作品ができあがり、やっぱり私の器は5m角に3人くらいのサイズなんだよなと苦笑させられた。

ベルギー時代に弟子入りした芸術家がデカいことが好きな人だったせいもあり、長い間「小さい」ということを何となくネガティブな、自分の弱点のように後ろめたく感じて来たのだが、数年前から小さいのもいいじゃん? という境地に至り、今は普通に小さいだけでなく、ものすごーく小さいもの(ミニチュアとか、顕微鏡とか、毛玉とか塵とか)の世界で作品を作っている。果てしなくどこまでも広く大きく見える「世界」でも、結局どこに行っても人間は身一つぶらさげているだけ。どんなに肥った人でも、どんなにエゴがデカい人でも、身長5メートルや体重3トンの人間はいないわけで、ひと一人が占有できる場所の大きさなんてたかが知れている。海の果ての広い空の下にいる私を東京の四畳半アパートに寝転んでいる青年は羨むかもしれぬが、私はまさにその四畳半の窓から見える風景と彼のアンニュイを羨みもする。ここにいれば、そこにはいられない。地平線の果てまで大きくとらえるレンズには地面に落ちた直径数ミリのダイヤモンドは見えない。

カラダは一つ。世界のどこに焦点を合わせるかは自由。どの入口から入っても、結局いつかは同じ所に辿り着く。自分に一番しっくり来るサイズを選べば、それでいい。ってことなんじゃ?

初夏の庭で、石をひっくり返した時に出て来た、アリとダンゴムシと名前も知らぬ多足類うじゃうじゃ。子供の頃は、そのアリの大きさにいつでもパっとなれたものだった。それはとても不思議な感覚で、世界はクルクル回って、伸びたり縮んだり、目に見えているものとは違う手触りのようなものにたちまち変身した。アリの大きさになってみると、自分の意識は砂粒のように小さくなっているはずなのに、そこからなぜかぐるりと裏返しにつながる感じで、星ぼしが無限に散りばめられた宇宙が見えた。まだ「永遠」という言葉を学校で習っていなかったので、私はそこでボーっとしてしまって、じんわりと悲しいような気持ちにすらなって膝のかさぶたをガリガリ掻いたりして、なんとか正気を保ったものだった。

小さいものが一番大きいものに連結しているというあの秘密の通路を今になってまた探しているのかもしれないな。箱庭? 盆栽? なんとでも呼んでくれ。そういえばフィギュアってのも小さいなあ。あれもオタクが宇宙とつながるための回路なのかしら、なんて。